静御前

大和高田での足跡を巡る


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静御前の生誕の地
棗原(なつめがはら) 
昔から、礒野の北部、高田川堤防のあたり一帯をさして呼び、「なつめ棗」が実を結ぶので有名になったところ。春に芽が出て花が咲き、夏になって実がなるという、一年生であることが古   来より奇跡とされ、その「棗」があったので地名となった。



大中公園内「静御前記念碑」
(碑表)静御前記念碑 
しずやしず 賤のおだまきくりかえし 
昔を今になすよしもがな




碑裏)静御前は大和高田の宿の長者磯禅師の娘といわれる。京に遊んで歌舞の名手となり、烏帽子に水干鞘巻を帯びたる麗姿は都人の称賛を浴びた。
かくて源義経と結ばれたが頼朝に追われ吉野山に義経と別れ捕らえられた。鎌倉鶴岡八幡宮の社頭、頼朝政子の前に夫を想う曲を舞い、後許されて大和に帰り母子とも磯野の里におわるという。ここに静御前の遺跡を示す村絵図により記念碑を建つ
    昭和五十三年七月 高田川を美しくする会 堀江彦三郎撰 玉泉米田壽夫書




礒野東町
高田高校内「衣掛けの松」について

 静御前が、笠神の杜の明神様に祈った帰り、ここの古墳にあった三本の松の一本に衣を掛け休んだとされる。その三本のうち、二本は枯れてしまった(一本は江戸時代に枯れた)が、一本だけは昭和初期まで残っていた。しかし、それも風害により枯れてしまった。また、墳丘も学校の敷地拡張により除かれてしまった。
 その名残りは、県立高田高校の体育館南側にある句碑だけになってしまった。




「衣掛けの松」句碑

  「色かえぬ 松に縁の 古墳かな」(湖月)
 高田の俳人、森田湖月が詠んだ俳句を昭和18年、西川林之助によって碑とされた。
  (碑の寸法 高さ70cm、巾70cm)





静御前の遺跡を示す看板
住宅の一角にある
静御前の遺跡

残念ながら、今は看板以外に
塚らしいものや碑などは全く無く
記念植樹以外は、草が生い茂るばかりである


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